キックボクシング四方山話ーキックボクシング誕生の礎にあの男と名選手あり!

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キックボクシング四方山話し「キックボクシング誕生の礎にあの男と名選手あり!」ということで、50年前に二人の男が、キックボクシングの礎を作ったというお話をしたいと思います。

 

さて、四方山話の第一回でキックボクシングが

日本生まれのスポーツである

ということをお伝えしたところ

「えーっそうだったの、知らなかった」

と何人かの方からの感想をいただきました。

 

意外に知られていないんですよね。

 

今回はその辺のいきさつを

もう少し詳しくお知らせしたいと思います。

 

 

キックボクシングの名付け親で、

日本キックボクシング協会を

1966年に設立したのは、

野口 修氏(のぐちおさむ 以後敬称略)

ということは前回お話ししました。

 

この 野口修という男、、

一体何者なのか?

 

野口修は東京都文京区出身。

父親は元プロボクシング日本王者で

野口ボクシングジム創始者の

ライオン野口の長男です。

 
 

ボクシングの環境で育った

野口修は日本ボクシング

コミッションレフリー

及びプロモーター・ジム会長

さらに、東日本協会の理事として

活躍しています。

 

まさに、ボクシングの

申し子のような人物でした。

 

 

その彼がなぜ、

キックボクシングの

生みの親なのか、、、

 

それは当時大人気であった

ボクシングではまだまだ、

日本人同士の戦いであり、

いづれは限界がくると

野口修は感じていた

ということがまずあります。

 

つまり、

もっと強く、

もっと広く、

もっと高く、、、 

世界をもまき込めるんスポーツを

自らプロモーションしたい、、

 

そうです。野口修は

この日本に第5番目の国民的人気スポーツを

自分の手で作ろうとしたのです。

 

 (復習です)

 さて、当時の4大国民的スポーツとは、、

 相撲、野球、プロレス、ボクシング、、、

 (5番目がキックボクシングだとすると

 ちょっと、格闘技多すぎか、、、笑)

 

 

そうして、何か変化を起こそうとする

リーダーが、常に直面する状況、、、

 

私は、個人的に、これが、新たにキックボクシングを

野口修が作りたかったもう1つの理由だと思います。

 

その状況とは、、

 

当時のボクシング界は

かなり人気もあり、

テレビ中継も含めた

興行も順調で

さらに高みを目指して

変化することへの抵抗が

非常に強かったという

状況です。

 

 

「別に、今うまくっているし

今のままで、いいんじゃね、、、」

(と言った人がいるかどうかは知りませんが、、)

 

まあ、よくある話ですね。

人間一度成功体験をすると、

そこに捉われすぎて、

変化を起こせなくなる、、、

(どっかの会社でよく聞いた

戒めのようです、、笑)

 

 

例えば、ボクシングで

野口修が外国から

強者を呼ぼうとした時、

それは呼ぶのはお金がかかりすぎると

テレビ局やスポンサーか らは

大反対されたということが

実際あったようです。

 

そこで野口修は、試合を

後楽園から浅草公会堂に移すことで

コストを抑えた国際試合を

断行し、この興行を大成功に

導いたということです。

(浅草でボックシングやってたって

こちらも初耳でした)

 

いや〜パイオニアというか、

困難を乗り越えて

夢を実現するリーダーですね。

 

 

 

そうして、ムエタイとの出会い、、、

 

東南アジアを

中心に強いボクシング選手の発掘に

出かけるようになった

野口修はついに

タイ式ボクシング(ムエタイ)

に出会うことになります。

 

ムエタイをつぶさに見た

野口修は、

この「殴る、蹴る、切る」の

要素を含んだ格闘技は

必ず当たると直感した

そうです。

 

帰国早速、ボクシングの

前座として浅草公会堂で

ムエタイの試合を

実現させると、

それを観戦した観客の

興奮する姿を見て、

さらなる確信を得たそうです。

 

前座の試合で手応えを掴んだ

野口修は、今度は

日本人選手とタイ人選手の

試合を実現させようと、

日本人選手発掘に

いろいろな人に声を

かけました。

 

目に付けたのが

極真空手の選手、、、

あの有名な

 

大山倍達

(こんなところにも登場ですね

さすがです)

 

大山から

3人の選手を借り受け

タイに乗り込み

一ヶ月の特訓の強行。

 

あのルンピーニスタジアムに

1万5千人を集め、

タイの選手を相手に

2勝(KO)1敗と

日本人の強さを十分に

アピールしそうです。

1964年のことです。

 

当時日本の新聞のみならず

タイの新聞も当時大きく

報道されました。

 

帰国後、野口修は

さらにムエタイの潜在的魅力・可能性に

確信を深め、この格闘技を

日本のみならず、世界に広めようと

「キックボクシング」と命名。

 

キックボクシグを立上げるに

あたっては、既存の各方面から

様々な猛反対があったらしい

のですが、それを乗り越え

1966年の一月に漸く

日本キックボクシング

協会を設立にこぎつけた、、、

 

ここまでが

キックボクシング誕生のお話です。

 

 

 

でもこれだけでは、キックボクシングは

日本では、定着しません。

 

そう、「この男」とあの「名選手」

 沢村忠

が出会わなくてはなりません。

 

では、沢村忠がどのようにして

野口修に出会ったのか、

 

どのようにして

キックボクシングに本気に

なったのかについて

お話ししたいと思います。

 

ものすごいドラマが

ここにはありました。

(私も初めて知りました)

 

 

 

1966年(昭和41年)、1月に

キックボクシング協会を設立した

野口修はその旗揚げ興行として

タイから選手を招き

「空手対キックボックシング」

と銘打った興行を企画しました。

 

ただ、日本人の選手探しには相当苦労したようです。

 

そりゃそうですよね、、、

できたばかりのスポーツで

すごい選手が日本にいるわけがありません。

 

そのような中、

知人から紹介されたのが、

空手の学生チャンピオンであった

白羽秀樹、、、、、

後の沢村忠となる

人物でした。

 

ここで、この白羽秀樹という

空手家について

簡単にご紹介したいと思います。

 白羽秀樹(しらは ひでき)

 1943年(昭和18年)1月5日生まれ

 祖父が唐手(とうて)の正師範代で、

 秀樹は5歳ごろから

 祖父直々の指導を受け始め、

 以来15年に及びマンツーマンで

 鍛えられました。

 (今で言う所の英才教育、、

 でも、祖父ってところが

 すごいっすよね)

 

 

漫画「キックの鬼」の中でも

書かれていますが、

この”おじいちゃん”

吉田秀之助(母方の祖父)

かなりの達人だったようです。

 

物心ついた時頃には

自分自身で夢中になり、

かなり厳しい練習にも

こなすようになっていた

ということです。

 

唐手とは、文字通り

中国・唐の時代に

護身用の武術として広まったもので、

空手の源流となる武術だそうです。

 

 

ここで1つの疑問、、

 「どうして空手の選手が

  キックボクシングに参加したのか?」

という疑問です。

野口修は、空手の選手を連れて

タイにも乗り込んでいます。

なんで、わざわざタイまで行ったのか、、、

 

空手が好きでそれをやっていれば

空手の世界で強ければ、

別に新しい、訳の分からない

キックボクシングなんかに

参加する必然性はない

ようにも思えます。

 

実は、空手の側にも、

ムエタイやキックボクシングのような

他流とも言える格闘技と

交流する、しなければならない

あるいは交流したい理由があるのです。

それは、このあとすぐ、、

 

 

さて、話を沢村忠に戻しましょう。

 

白羽秀樹がそのような環境で成長し、

日本大学に入学すると

剛柔流を旨とする空手部に入部し、

三段まで取得することになります。

 

公式戦では60回以上戦って負けは無し。

これは驚きですね。

とにかく強い!!

当時の学生空手界では

「白羽秀樹」という名は

知らない人はいないくらい

有名なものとなっていました。

 

野口修はこの選手に目をつけました。

即戦力、中途採用、、否、、

ピンポイント狙いの

ヘッドハンティイグですね。

 

ここで、白羽選手をまずは6月の試合に

出場させるために野口氏がとった作戦が

実に巧妙でした。

格闘家の闘争心に火をつける、、

その巧妙なやり方とは、、、!

 

こういう感じです。

 

野口曰く

 「空手学生チャンピオンの

  白羽君は空手が最強だと

  信じているのかもしれないが、

  それは貴君の全くの認識不足。

  所詮、空手なんぞは寸止めで

  全く実戦的ではない。

  キックボクシング(ムエタイ)は

  近づけば、肘、膝

  遠ざかれは回し蹴り

  これと戦えば空手なんて

  ひとたまりもないさ、、、」

という感じです。

 

 

そうなんです。空手という競技

実は”寸止め”なんですね。

 

  寸止め : ちょっと手前で止めること

 

実際の相手にダメージを与えないのです。

したがって、実戦において

本当に強いのか分からない、、

という見方もあるのです。

 

 

実は、この議論

つまり、寸止めか、

実際に相手にダメージを与えるのか、、

与えるべきかそうでないのか、、

現在においても大きな議論があり

これをどのように考えるかによって、

流派が分かれるほどのようです。

 

余談ですが、、、、

 空手がオリンピックの競技となりましたが、

 オリンピックの競技に選ばれたのは

 実は、この寸止めの空手なんですね。

 

さらに、ここが空手の選手が

キックボクシングやムエタイの試合を、

自らの強さを実証する場として

参戦する・したい理由でもあったのです。

 

野口氏の挑発にまんまと

乗らされた白羽は

自分の仲間を戦わせることを

約束してしまったということです。

 

そうして迎えた試合当日早朝、

1966年4月11日、大阪府立体育館で

事件は起きました。

 

なんと、出場予定選手が

白羽以外全員いなくなってしまったのです。

どうも、前日のタイ人、つまり

元タイのフェザー級チャンピオン、

ラクレー・シーハヌマンの

公開練習を見てその破壊力に

怖気付き、夜逃げをした、、

のでした。

 

困った白羽は

責任を取って自分が戦う、、

その代わりに出した条件が

以下でした。

 

白羽曰く

 「本名は困るので、

  (負けた時に空手界の名誉に関わり)

  リングネームでお願いします」

 

そこで用意されたのか

 「沢村忠」

というリングネーム、、、

 

まさか、この名前が

キックボクシングの

代名詞になるほど

有名になろうとは

この時誰が想像できたでしょうか?

 

それで、その試合結果は

というと、、、なんと

3R 0分50秒

沢村忠の蹴りが

ラクレーのノド元に

突きささり大KO勝利!

5千人の会場は

大いに盛り上がり

旗揚げ興行は成功したのでした。

 

 

白羽秀樹はもちろん一回限りの

出場のつもりだったので、

野口修は第2回目の興行に向けて

さらに次の策に出ました。

それは、こんな感じです。

 

野口修曰く、

 「まさかあれで勝ったと

  思っているんじゃないだろうね。

  タイにはあれより強いのが

  ゴロゴロいるんだ。

  まあ、やりたくない

  というならそれでもいいんだが、、、、

  君なら勝てると思うんだが、どうかな?」

 

またしても、野口氏の挑発に

 「いいですよ。やりましょうと」

と話が決まりました。

 

相手は、ルンピニーの現役フェザー級

8位のサマン・ソー・アジソン選手です。

 

ただ、この二回目の試合が

白羽氏が「沢村忠」として

真剣にキックボクシングに

取り組むきっかけとなったのです。

すなわち、目も当てられないほどの

 

  大惨敗、、、、 

 

1966年6月21日

場所は東京渋谷のリキパレス

「空手が勝つか、キックが勝つか」

会場は超満員、、、

そして運命のコングは鳴ったのです。

 

試合展開は前回とは

全く異なっていました。

1Rからアジソン ペース、

1R終了後、セコンドが頭から

かけた水が空手着に染込み

重くなって2R以降の

沢村の動きを鈍くします。

これも想定外、、、

 

3Rからはアジソンのスパート、、

圧倒的手数の蹴り、パンチ

ついに、右のハイキックで

ダウンを奪われた後は

ほぼ、サウンドバック状態、、

 

ただ、沢村は何度倒れても

起き上がり立ち上がっていく

 

4Rに入り観客からは

「もうやめさせろ」の

声がかかる中、右フックに

よるダウンでついに

レフェリーストップ

試合は沢村の大敗で

幕を閉じるのでした。

 

 

結局、4R 2分53秒KO

ダウンの回数は16回

沢村は担架でそのまま

病院に直行したという顛末でした。

 

ダメージもかなりのもので

奥歯が5本へし折れ

(前歯でなく、どうやったら

奥歯が折れるのか?)

 

13か所の出血

さらに後頭部陥没

高熱が一週間続き

一ヶ月の入院という

ちょっと考えられない

ダメージでした。

 

本当、そこまでの根性

というか、やらせる方も

どうかと思いますが、

そこまでやった沢村選手は

ただ者ではないですね。

全くほんとに、、、、

 

 

それで野口修はどうしたかというと、、、

多分沢村選手の再起はないだろうと

いや、再起なんかより、

元の生活に戻れるかどうかが心配で、

戦わせたことを後悔し、

自責の念にかられるという

精神状態だったそうです。

 

そんな中、せめて試合の健闘ぶりを

労ってやろうと訪れた

病室で野口氏が耳にした沢村選手の

言葉がまさに、驚愕でした。

 

  「野口さん、このままでは終われない。

   もう1度やらせてください」

 

まさに「キックの鬼」が誕生した瞬間でした。

 

沢村忠選手はこの後

キックボクシングに転向

厳しい練習を重ね

伝説の選手となっていくのです。

 

 

 

いやーものすごいストーリーですね。

こんなことがあれば、そりゃ

漫画ネタにもなりますよね。

 

以上が野口修という男が、

キックボクシングを立ち上げ、

後のスーパースター沢村忠が

空手やめてキックボクシングで本気になったか、、

というお話でした。

 

いかがですか、幾らかでも

キックボクシングの誕生に

関る物語をお楽しみ

いただけたでしょうか?

 

私自身も調べていて、沢村忠選手も含めて

日本生まれのキックボクシングが

すこし身近になったような気がしています。

 

 

 

その後沢村忠は、八ヶ岳で

1年間の山籠り及び

人間離れした修行を経て

キックボクシングに

カンバックすることになります。

その後の10年間の沢村忠の戦績、、

 241戦232勝(228KO)5敗4分

   勝率  :96%

   KO率:95%

まあ、途轍もない選手です。

 

この沢村選手の強さによって

キッックボクシングは

第五の国民的スポーツとなったという

誕生秘話でした。

 

それでは

本日はこれにて。

 

 

村田裕俊選手の

世界進出を

最前列(リングサイド)で応援する

親バカ ・ロマンスグレー親父の

村田博隆

(通称 リングサイド親父)

でした

 

 

なお、本発信をするにあたっては

ウィキペデア、鈴木勇悦さん及び

吉田浩貴さんのホームページ

また、テレビで放映された

驚きもものき20世紀ー「キックの鬼 沢村忠の真実」

まんが「キックの鬼」等を

大いに参考にさせていただきました。

この場を借りてお礼申し上げます。

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